第1章わたくしの幼少期の素描①

Chapter 1 A Sketch of My Childhood(わたくしの幼少期の素描)

Honolulu(ホノルル)の町を背後から見守るように立つ、すでに活動を終えた火口の山は Punch-Bowl(パンチボウル)と呼ばれております。
その麓には Queen’s Hospital(クイーンズ病院)があり、この病院は Kamehameha 4(カメハメハ4世)の王妃 Emma(エマ)がおおいに尽くされたことから名づけられました。国王ご夫妻が自ら募金を集め、病院は1860年に完成いたしました。

この病院のすぐ近くで、わたくしは1838年9月2日に生まれました。父の名は Kapaakea(カパアケア)、母は Keohokalole(ケオホカロレ)で、母は1840年に最初の成文憲法を公布した Kamehameha 3(カメハメハ3世)の十五名の側近のひとりでございました。

わたくしの曽祖父 Keawe-a-Heulu(ケアウェアヘウル)は Kamehameha 1(カメハメハ大王)の父 Keoua(ケオウア)と従兄弟であり、また Mrs. Bishop(ビショップ夫人)の先祖 Hakau(ハカウ)の兄でもございました。
大伯母の Queen Kapiolani(カピオラニ)王妃は、火山の縁の神聖な実を摘み、賛美歌を歌いながら煮えたぎる溶岩へ投げ入れ、火の女神 Pele(ペレ)の力を民の心から退けたことで広く知られております。

わたくしの家系が古代の最高位の首長たちに連なることは、巻末の系図に詳しく示されております。

Kamehameha 1(カメハメハ大王)はハワイ統一の偉業を成し遂げましたが、早期の歴史書によれば、彼が王に選ばれたのは、わたくしの家系である高位の首長たちの推挙によるもので、その恩義は大王自身も生涯忘れられませんでした。

Kapiolani(カピオラニ)王妃の夫 Naihe(ナイヘ)は王の時代の名高い演説家であり、その父 Keawe-a-Heulu(ケアウェアヘウル)は大王の最高の側近でございました。
さらに Keeaumoku(ケアウモク)と Kameeiamoku(カメエイアモク)の助力がなければ、Hawaiʻi(ハワイ)諸島は長く混乱したままであったかもしれません。

祖父 Aikanaka(アイカナカ)は Punch-Bowl Hill(パンチボウルの丘)の砦の大砲を管理しておりました。これらは Hawaiʻi(ハワイ島)から運ばれ、最終戦で大王に抗した勢力が Pali(パリ)の崖へ追われたのち、首長たちが Oʻahu(オアフ島)へ移住した時に持ち込まれたものでございます。

一部の外国人は「首長の豊かさは家臣の貧困の上に築かれていた」と申しますが、五十年前のハワイの生活を知る者にとって、これはまったく誤った見解でございます。
家臣の困窮は首長自身の恥であり、その苦しみでもありました。

父は多くの従者に囲まれておりましたが、誰一人として食べ物に困ることはありませんでした。大きな草葺きの家の周囲には従者の家が並び、食物は十分に行き渡っていました。
首長は優れた監督役を任命し、その者が土地を割り当て、タロ芋や芋、豚や鶏を育てさせ、森林も女性に分配されてタパ布の材料を得ました。

一般の人々は土地を売ることも抵当に入れることもできませんでしたが、この制限があったからこそ、今日のように多くが住まいを失う状況に至ったのでございます。

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