第2章 私の青春時代のいくつかの出来事 2/2

1855年6月13日、養父 Paki(パキ)が亡くなりました。
その直後、Alexander Liholiho(アレクサンダー王)と Emma Rooke(エマ・ルーク)の婚約が発表されました。

家系の血筋を重んじる者たちは国王に「結婚を思いとどまるべきである」と進言し、その理由として
「陛下と並び得る身分の者は、Paki(パキ)の養女である彼女だけです」
と述べたのでございます。

これを聞いた Alexander(アレクサンダー王)は強くお怒りになり、その者たちを退けられました。

Emma(エマ)は Kalaniopuu(カラニオプウ)の異母兄弟の血筋で、Kalaniopuu は Kamehameha the Great(カメハメハ大王)の従兄弟でございました。
婚礼は1856年6月19日に行われ、花嫁付添いには Princess Victoria(ヴィクトリア王女)、わたくし、Mary Pitman(メアリー・ピットマン)、花婿付添いには Prince Lot(ロット王子)、Prince William(ウィリアム王子)、そして兄 David Kalakaua(デイヴィッド・カラカウア)が立ちました。

Honolulu(ホノルル)は祝いに包まれ、Kawaiahao(カワイアハオ)教会は人であふれました。
その後も宴や遊びが続き、各国の人々、さらには Chinese(中国)の人々までもが独自の祝宴を催したほどでございます。

この頃、Moanalua(モアナルア)からの帰途の大行列で、John O. Dominis(ジョン・ドミニス)は Prince Lot(ロット王子)の従者としてわたくしのそばにおりました。
そこへ不慣れな騎手が馬を割り込ませたため混乱が生じ、Dominis(ドミニス)は落馬して脚を折りました。
それでも彼は馬に乗り直し、わたくしを家まで送り届けましたが、自宅に戻った頃には脚は腫れ上がり、骨が癒えるまで家で過ごすことになりました。

その年の11月、わたくしは母 Konia(コニア)に付き添い Hawaiʻi(ハワイ島)へ向かいました。
Kona(コナ)、Kaʻū(カウ)、Kaleakekua(カレアケクア)湾を訪れ、この湾は Captain Cook(クック船長)が命を落とした場所として知られております。
そこには妹 Princess Miriam Likelike(ミリアム・リケリケ)が育てられており、彼女は満足して暮らしていましたが、都の暮らしに慣れたわたくしには静かすぎ、寂しく思えました。

数か月の滞在後 Lahaina(ラハイナ)へ移り、そこで兄 Kalakaua(カラカウア)から手紙を受け取りました。
内容は Princess Victoria(ヴィクトリア)と婚約したので来てほしいというものでした。
わたくしは五人の高位の家柄の女性を伴い Honolulu(ホノルル)へ向かいましたが、到着すると婚約はすでに破談になっておりました。

わたくしは Maui(マウイ)へ戻る支度をいたしましたが、Prince Lot(ロット王子)主催の宴会への招待を受け、出発を延期いたしました。
その宴には Victoria(ヴィクトリア)も現れ、Prince William(ウィリアム王子)との新たな婚約の噂さえございましたが、宴は夜明けまで続きました。

翌日午後二時、Prince Lot(ロット王子)と Mr. Dominis(ドミニス)、そして五人の高位の女性とともに、わたくしは schooner Kekauluohi(ケカウロヒ号)に乗り込みました。
船は Prince William(ウィリアム王子)の所有で、彼も乗っておりました。

Prince William(ウィリアム王子)はわたくしに自分の船室を使うよう強く勧められ、部屋を満たしていた果物や衣類を片付けさせた後、わたくしは船室を使わせていただきました。
そして皆の前で「わたしたちは結婚してはどうか」と求婚されました。

船には高齢の説教師 Pikanele(ピカネレ)がおり、その場で式を挙げると申し出ましたが、Prince William(ウィリアム王子)が従姉妹の Princess Victoria(ヴィクトリア)と婚約していると聞き及んでおりましたので、その場で結婚することはできないとお断りいたしました。

Lahaina(ラハイナ)に到着すると、Prince William(ウィリアム王子)は再び求婚され、わたくしは熟考の末、手紙で返答することといたしました。
彼が Kona(コナ)へ向かったため、わたくしは schooner Kamamalu(カママル号)に手紙を託しましたが、この船は海で遭難し、手紙は届きませんでした。

一方、Princess Victoria(ヴィクトリア)は Prince William(ウィリアム王子)に手紙を送り、婚約を続けるよう求めていました。
Prince William(ウィリアム王子)は Honolulu(ホノルル)へ向かう途中 Lahaina(ラハイナ)に立ち寄り、返事がなかったので断られたと思っていたと話しましたが、わたくしが事情を説明すると再び求婚され、わたくしたちは婚約いたしました。

その年の5月、母とともに Honolulu(ホノルル)へ戻りましたが、母の体調は回復せず、1857年7月2日に亡くなりました。
養父母を失ったわたくしは、姉夫婦である Mr. and Mrs. Bishop(ビショップ夫妻)のもとで暮らすようになりましたが、Prince William(ウィリアム王子)は婚約の継続を主張いたしました。

Mr. Bishop(ビショップ氏)は国王に「二人の結婚は良い選択でしょうか」と尋ね、Alexander(アレクサンダー王)は「もし彼女が自分の娘なら賛成はしない。しかし両者が望むなら反対はしない」と答えられました。

しかしその後いくつかの事情が明らかになり、わたくしは婚約を解消いたしました。
Prince William Lunalilo(ウィリアム・ルナリロ王子)も Princess Victoria(ヴィクトリア王女)も、その後生涯結婚することはございませんでした。

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