Chapter 5 Hawaiian Music, and a Ducal Guest(ハワイ音楽と公爵の来訪)

ハワイの人々は太古の昔より詩や音楽を好み、歴史的出来事を歌い上げる詩や恋の歌、また礼拝の際に捧げるチャントを即興で作ることに長けておりました。生者を称える賛歌も、逝きし人を悼む哀歌も、彼らにとっては自然な感情表現にほかなりませんでした。私の先祖もまた、この分野でとりわけ優れた才能を有しておりましたが、それにもかかわらず、私が出版したものを除けば、ハワイの音楽が書き記されたものはほとんど存在していないというのは、実に注目すべきことでございます。
学生時代、私が初見で楽譜を読み取る能力は常に教師たちに認められておりました。これまでに述べた学校のひとつでは、私の隣に、教師が生徒に紹介したいと望む新しい旋律を即座に読み取れる少年がおりました。名はたしか Willie Andrews(ウィリー・アンドリューズ) と記憶しております。私たちは未知の楽譜を手渡され、譜面を追って歌い、他の生徒たちは耳で覚えながらそれに続き、やがて学校全体が新しい曲に親しむようになりました。学校を離れた後も、機会があるたびに私の音楽教育は続けられましたが、詩や歌が必要とされるどのような場面においても、その詞や曲を書くことができなかった、という日がほとんど思い出せないほどでございます。作曲するという行為は呼吸をするほど自然であり、この天賦の才は衰えることなく、今日まで私にとって最も大きな慰めとなっております。作品を数えたことはございませんが、その数はおそらく数百に上るものと思われます。そのうち印刷されたものは四分の一にも満たないものの、とりわけ人気のある曲は何度も版を重ね、版木が擦り切れるほどの需要がございました。長く孤独に思えたであろう時間も、音楽によって私の思いを形にすることで、たちまち静かで明るい時となり、楽器の助けが得られないときでさえ、自らの声の響きを紙に写し取ることができました。Kamehameha V(カメハメハ5世) の治世初期、国王はハワイには国歌が存在しないという事実を私に示されました。どの国にも、その国の愛国心と郷土への思いを表す音楽があるものだが、わが国では公式の場で古くからの英国国歌 “God Save the Queen(女王陛下万歳)” を用いている、と国王は仰いました。国王はこれに代わる、私自身の作曲による歌を望まれたのです。私は1週間でその仕事を終え、国王に完成をお知らせいたしました。Princess Victoria(ビクトリア王女) がかつて Kawaiahao Church(カワイアハオ教会) の聖歌隊の指揮者を務めておられましたが、1866年5月29日に王女が亡くなった後、私がその指揮を引き継ぎました。そしてこの教会とその聖歌隊において、私は初めて「ハワイ国歌」を紹介いたしました。国王は新しい曲と歌詞をご批評になるためにご臨席され、成功を大いに称賛してくださいました。国王は曲の美しさのみならず、旋律と目的にふさわしい詞が極めてよく調和していると、熱心にお褒めくださいました。この国歌は20年以上にわたり使用され、その後、私の兄が Hawaii Pono‘i(ハワイ・ポノイ) の歌詞を作りました。当時、兄は国王であり、楽隊長にその詞に合う旋律を付けるよう命じました。楽隊長はドイツ人であり、自国の音楽の中から適切と考える旋律を選びました。近年では、この曲が国歌として定着するようになりました。
近年の変化により、His Majesty Kalakaua(カラカウア王) による詞は公的な場にはふさわしくないとされ、現在では旋律こそ残っておりますが、「王を仰げ」という古い表現に代わり、「民を仰げ」という趣旨の言葉が用いられるようになりました。1869年、Duke of Edinburgh, Prince Alfred of England(イギリスのエディンバラ公アルフレッド王子) が、英国海軍の軍艦 Galatea(ガラテア号) の指揮官としてホノルル港に到着いたしました。国王は公の来訪を知るや、特別な歓迎準備を整えられ、前年11月に亡くなった Kekuanaoa(ケクアナオア) の邸宅を、公が上陸中の滞在先として割り当てられました。私自身は、ガラテア号の来航の3か月ほど前に母を亡くし、社交の場から身を引いておりましたが、この訪問は特別な機会とされ、国王から私に、それ相応の敬意を示すよう求められました。そこで国王のご要望により、私は Waikiki(ワイキキ) の自邸にて盛大なルアウを催し、政府関係者をはじめ、市内の名家の方々を、出自を問わずすべてご招待申し上げました。
公が最初に上陸された際、お迎えにあがったのは、長らくホノルルにおける英国公使を務めた Major J. H. Wodehouse(J・H・ウッドハウス少佐) であり、同時に Mrs. Wodehouse(ウッドハウス夫人) も到着しておりました。お二人はすでに私の宴の招待客であり、公自身がぜひとも私の家へ同行してほしいとお望みになりました。宴は午前十一時開始で、他国であれば朝食会と呼ばれるような性格のものでございました。海軍の士官でもある公は御者台に上がって自ら手綱を取り、その腕前を見事に披露なさいました。英国王室の方々は皆、馬術に優れておられると承っておりますが、エディンバラ公もまた、そのご本国で培われた習慣に忠実であられたのでございます。Queen Dowager Kalama(カラマ王太后)、すなわち Kamehameha III(カメハメハ3世) の王妃であられた方は、御自らの儀礼用の馬車に乗り、養子である Kunuikaea(クヌイカエア)、そして私の妹 Miriam Likelike(ミリアム・リケリケ) とともにワイキキへ向かわれました。両名は当時婚約関係にございましたが、後に妹リケリケは Hon. A. S. Cleghorn(A・S・クレグホーン卿) と結婚し、Princess Kaiulani(プリンセス・カイウラニ) の母となりました。馬車の御者たちは王族の象徴である羽毛の肩掛けをまとい、従者たちも同じく王家の装束を身に付けておりました。この日の催しは当時としても最も壮麗な式典の一つと考えられ、来賓の高貴なお立場にふさわしい厳粛さをもって進められました。公は私ども夫婦、そして早くから到着していた His Majesty Kamehameha V(カメハメハ5世) によって丁重に迎えられました。会場にお入りになった時には、たいへん愛らしい二人のハワイ女性が進み出て、ハワイの慣習どおり、公の首に lei(レイ) と呼ばれる花の長い輪を捧げ、お飾り申し上げました。ハワイ諸島でも随一の美しさと称された Mrs. Bush(ブッシュ夫人) が進み出て、公の首に花のガーランドを結びつけようとすると、公はその珍しい風習にわずかに戸惑われたご様子でした。しかし、公は紳士らしい落ち着いた優雅さをもってそれを受け入れ、花々と、そこに込められた心からの歓迎に大いに喜ばれているように見えました。この楽しい日を皮切りに、舞踏会、ピクニック、そして数々の宴が続きました。公は私ども夫婦や市内の名士たちを自邸に招き、返礼の宴を催されました。やがて Galatea(ガラテア号) 出航の日が近づき、公は訪問中に受けた歓待への喜びと、ハワイを離れることへの名残惜しさを伝えるべく、私のもとを訪ねてくださいました。この折に、公は私に、海軍将校としてのご職務にちなんだ腕輪を贈ってくださいました。それは純金製で、船舶の錨綱を模した力強い造りの鎖に、錨のペンダントが添えられたものでございます。また、公自身が作曲された二つの楽曲の写譜も賜りました。私は今なお、この三つの記念品を、英国の名高き女王の御子息であり、同時にその国の最も高潔な水夫の一人であられた公の思い出として、たいせつに保管し、心に留めております。その後1887年、私がロンドンを訪れた際の Queen’s Jubilee(女王陛下治世50周年記念祭) において、公と再びお会いいたしましたが、公は旧知の私をたいへん温かく認めてくださり、式典では私の随行役をお務め下さいました。その際、私のもう一方の隣席には、現 Emperor of Germany(ドイツ皇帝) が座しておられたのでございます。
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